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『宇宙戦艦ヤマト』以外の記録

【すずめの戸締まり】軽薄な映画:第一印象

こんにちは。ymtetcです。

先日、映画『すずめの戸締まり』を観てきました。

suzume-tojimari-movie.jp

結論から言えば、とても軽薄な映画だと感じました。

今日は、この私の第一印象について、考えていきます。

〇震災をファンタジー映画で描く嫌悪感

この映画への私の批判点は、「震災をファンタジー映画として描いた」ことに集約されます。

新海誠監督は、『君の名は。』以降、積極的に災害と向き合う映画を作ってきました。その覚悟は全く軽率だとは思いません。むしろ、新海さんの監督作品で震災が描かれる、とだけ聞けば、楽しみになるほどでした。新海さんが、震災とどう向き合い、結論を出すのだろう? と。

しかし、結果は「新海監督の震災に対する向き合い方」の根底にある「他人事感」や軽薄さが見えてしまった、それだけだったと思います。

地震は防げない

地震というものは防げるのでしょうか。私は専門家ではないので答えを持ちませんが、大学時代、数年前に地震の講義を受けたことがあります。地震は予測できないし、防ぐこともできない。それがその講義の主題でした。

一方、本作はどうでしょうか。

『すずめ』では、地震は日本各地の「ミミズ」が引き起こすものとして描かれていました。そして、「閉じ師」と呼ばれる存在が扉を閉めれば、地震を防ぐことができるのです。これは、現実の「人間の手で防ぐことができない地震」を、「人間の手で防ぐことができるもの」として描いた、ということになります。

地震は人間の手で防ぐことはできない」という前提に立ってこの作品を観れば、本作はファンタジー映画です。

〇ファンタジーで史実を「語り継ぐ」軽薄さと暴力性

この映画に対して、「震災を知らない世代に対して、震災を語り継ぐ役割を果たした」と言う指摘があります。実際に新海さんも、

あれほど僕らにとって巨大な出来事だったのに、11年が経って、共通の体験として分かってもらえないようになっていて。あの日、多くの人々がまざまざと感じた強い揺さぶりを、改めて共有するタイミングは、今でなくては遅くなるのではないかと思いました。

【インタビュー】新海誠監督がエンタメ映画に込めた覚悟 「すずめの戸締まり」で辿り着いた境地 : 映画ニュース - 映画.com

と語っており、この新海さんの視点には私も同意見です。

ですが、「人間が防げない」地震を「人間が防げる」ものとして描くファンタジー映画で、果たして現実に起きた地震と災害を語り継ぐことができるのでしょうか?

〇広島の平和教育と似ている

これと同じようなものとして、「広島の平和教育」を挙げておきましょう。

私は広島の生まれなので、小さい頃から平和教育を受けてきました。しかし、私が受けていたころの平和教育は、ただ「原子爆弾の恐怖」を植え付けるだけのもの。典型的な筋書きは、「ある晴れた夏の日、突然空から原子爆弾が降ってきた」というものでした。

しかし、現実の原子爆弾アメリカ軍が投下したものですし、広島に落とされたことにも理由がある。でも、それを深堀りせず、あたかも災害のように描くわけです。

これは、『すずめの戸締まり』とは反対に「人の手で防ぐことができた原子爆弾を、人の手で防ぐことができなかったもののように描く」ということです。これで「語り継いだ」気になっても、核兵器はこの世界からなくならない。なぜなら、次世代に語り継ぐための「語り」が、現実から乖離しているからです。

〇エンタメ性を犠牲にする覚悟が欲しかった

過去に起きた災害を語り継ぐためには、現実性こそが重要だと私は考えます。現実に起きた出来事をファンタジー化するのは、現実に起きた「過去」への暴力だと考えます。

地震の根本的な原因が分かっていても、私たちにそれを防ぐことはできません。できるとすれば「減災」のみでしょう(その点からいえば、減災をゴールとした『君の名は。』は誠実な映画でした)。

そんな現実がありながら、ファンタジー映画のなかに「2011年3月11日」を明確に登場させ、震災孤児に東京での「大震災」を防がせるという筋書きを(中盤とはいえ)用意したのは、非常に軽率で軽薄な判断だと私は思います。そして、大震災を「閉じ師が失敗した」結果のように描くことは、過去に起きた災害への暴力だと考えます。

私は新海作品を『言の葉の庭』あたりから観始めた世代です。新海さんの監督作品はファンタジー・SF要素が非常に強いのですが、一方で、写実的な作画のなかで描く、人間の心情に寄り添った物語・言葉選びができる点こそが、新海作品の良さだと考えています。

新海監督が「2011年3月11日」を取り上げるなら、そうした写実的な作品であって欲しかったです。そんな作品こそが、新海さんのやりたかった「震災を語り継ぐ」ことに繋がったと思います。『すずめの戸締まり』からファンタジー要素や地震要素を切り離してエンタメとして描くのは不可能に近いと思います。ですが、エンタメ性を犠牲にする覚悟を込めるだけの意味が、あの「2011年3月11日」にはあるのではないでしょうか。

 

少々嫌な表現も使ってしまいましたが、これがひとまず、私の第一印象でした。

「エンタメ」の暴力性に傷つけられて涙が出た映画は、生まれて初めてでした。